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November 18, 2008

2007年ストラスブール公演評・和訳

先日来、仏語記事をご紹介下さって、大変お世話になっておりますぶぶか様が、今度は2007年5月4日・6日の、ストラスブール公演評を和訳して下さいました。この文章は、先日のColosse aux pieds d’argile(Concerto.net)(和訳はパリ公演評・和訳2)の最初の段落中で「過去記事参照」としてリンクされていた文章です。

当日の曲目は、ラフマニノフの協奏曲2番と、プロコフィエフの交響曲5番で、批評文の最後の段落はプロコのほうに関する好意的な内容の文章だそうで、その部分はポゴレリチの演奏に直接の関係がないので、割愛した訳をして頂きました。

(原文は、こちらです→D’après Rachmaninov(Concerto.net))

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ラフマニノフによると

もうすぐ50歳を迎えるイーヴォ・ポゴレリチは、80年代の大人気ピアニストの象徴からは全く変わった。当時、発売される新譜は神託の暗号を解くかのごとく期待され、彼がコンサートホールに姿を見せると、そのような場所にはむしろ似つかわしくないような派手な騒ぎを引き起こしたものだった。その後これまでの間、この芸術家の私生活も健康状態も容易ではなく、数々のひどい軌跡を残しつつ、かつての若くて騒々しいスターを今日一抹の不安を抱える人間像へと変えた。我々が大いに推察した肉体的な力強さとは正反対の、ためらいがちな身動き、剃った頭、無表情、聴衆をただちに無視する奇妙な態度、このピアニストはすばやく着席するとホールが完全に静まる前に、すぐさまラフマニノフの協奏曲第2番の最初の音を弾き始めた。

この10年来、イーヴォ・ポゴレリチの数えるほどの稀なリサイタルを聴きに行けた人達にとっては、この風変わりな開始は驚きではないだろう。逆に、この芸術家の肉体的な見かけはむしろ良くなったように見える、おそらくこれまでの中でもっとも活動に時間を費やすと予告しているので(不確実だった録音が計画されそうなこと、彼のルガーノでの新居)。しかしながら、今回このピアニストを聴くことができたのは、近年の純粋なる快挙、または、思いがけない幸運であったのは事実だ。長らく表舞台から遠のいてはいたが完全に忘れ去られるべきではなかった一芸術家の、初期の録音(現在でも全て入手可能)によって残された強烈な印象が記憶にあるだけである。

思いがけない幸運?定期演奏会に来ているストラスブールの聴衆はおそらく特に意識はしなかったであろうが。というのは、イーヴォ・ポゴレリチのリサイタルがめったに行われないのであれば、彼がコンチェルトのソリストとして現れることなど非常に稀有なことである(その上、予定がほぼラフマニノフのコンチェルトの2番とさらにはプロコフィエフのコンチェルト3番にあてられている)。「もう私はオーケストラとは多くは演奏しない。つまらないので・・・」と昨年ドイツのメディアからの取材に応じ、このピアニストは宣言していた。そして確かに、直感的には、現在のポゴレリチの演奏の世界を我々は悪いほうに想像している。それは完全に主体的で、オーケストラがまとまるための必要最小限の規則によって共立可能なものである。始めの小節からひどく気をもませる。常識を逸脱した遅さのテンポ、さらにはメロディーの完全なる分解、有名な出だしは、まるで驚きの連続のように一つ、一つと発見しているかのようであり、もう理にかなった進行の音楽的要素ではない。しかしながらそこは、犠牲となったキリル・カラビッツのおかげである、まだとても若い指揮者である彼の開かれたエスプリのおかげで奇跡的な行程に成功し、いっぺんにくる要求も、常に警戒し、ついには頻繁にこの予測不可能なソリストとの局面を見出した。相反する二人の魅惑的な対話、指揮者の形勢は見た目には最もしなやかで、ある時は前に出(他に手段はないだろう、この永遠に終わらなさそうな対話のもとでは)、ある時は脇に寄るということを知っている。そしてこのコンチェルトを指揮するには鋼の神経が必要だと我々は想像できる。なぜならこのソリストがカデンツごとに突然テンポを半分に落とすので。時間のずれ(オーケストラはそれにいくらかついて行くが、直ぐにもとの状態にする)、およびオーケストラの音色を時としてにじませる”乱れ”をも避けるのが難しい。それでも、協奏曲の観念はこの極限状態ほど情熱的とは決して見えなかった。そして我々は、ストラスブールフィルハーモニック管弦楽団の音楽家たちが同様の注意と名演をもって挑戦に応じるのを楽しんだ。注意深く、完璧に彼らの仕事に没頭し、椅子にまっすぐ座りながら。この優美な様がフルートにも影響し、第二楽章での緊張の緩和と音楽的素晴らしさに満ちた挿入に成功した。そこは、惑わすようなこの世のものとは思えないピアノと、未熟なレモンの汁をさんざん浴びたショックの後で、我々も懸念していた箇所だったが、一度だけ心地よく緩和されたような気分になった(アダージョ・ソステヌート、テンポ・プリモの再提示部前の一小節)。

まさに瀬戸際に立たされて演奏された協奏曲、約100人の音楽家とたった一人との間で。その”一人”というのは自分勝手で、古くぼけた楽譜に鼻を突っ込み、譜めくり助手を伴っている。あえて言おう、もしポゴレリチ以外の誰かがこれと同様に有名な作品にて、この自由さの4分の1でも演奏しようものなら、それは邪道だ。しかし、類まれな実績ある音楽家が提案し、もし我々が彼の世界に入ることを受け入れたのであれば、それは純粋に魅惑的である。ルバートの観念をはるかに超え、この聞こえてくる音楽的自由さを持った新たな”ルバート”は、我々がちょっと早くに盗んだ”遅れ”を若干長く持ちこたえなければならない。ポゴレリチは好きで遅れており、全く追いつこうともせず、もはや構築もせず、面白く詩的な放浪をただ引き起こさせるだけだ。それは、彼自身が幻想的で苛まれた世界を創造しつつも、そこでは、それぞれが自分の好みに合った、アルノルト・ベックリン、エドヴァルド・ムンクまたはジェームズ・アンソール達のような不吉な痕跡を見つけ出すことができる。驚きと意外な隠蔽への旅(オーケストラの存在にピアノの旋律はえてして消えうせるが、突然のアクセント、さらには対旋律が前代未聞の立体感で不意に現れるおかげで、そこに完全に溺れているわけではない)。好んで弾かれるラフマニノフのコンチェルト2番が、これほどまでに濃密で、究められ、増え、そして理屈に合わないことに、ほとんどどぎつくないように思われる事は決して無いだろう。なぜなら仮にポゴレリチの演奏がただ変動的なだけであるなら、彼は全ての俗っぽさを避け、どんなに大きく急な進路変更の最中であっても、作品に対しての厳格な印象を守り、あまりに簡易な感情に対して、静かに軽蔑した態度を保つであろう。奇跡と不可解さを同時に併せ持っている。聴く以外には正確に表現できない。このピアニストを信用し、導かれるままにし、破片ひとつさえも失わずにいるにせよ、または完全に外野に留まり非難することもできる。このどちらの態度も平等に尊重すべきである。しかし、聴衆の静粛の度合いを聞く限り、彼は多数決により1番目の選択をしたのではないかと推測できる。

ローラン・バルテル

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